'98-1月 勧請綱張替え神事

今年も巨大な藁のオチンチンが村の入口にぶら下がる巻

明日香の稲渕大字では、もう何百年も、あるいは千年もの昔から、正月には村の入り口に注連縄を張り巡らし、一年の息災を祈る行事が続いているそうな。それもなあ、ただの注連縄ではねえ。男綱いうてな、十歳の子供の背丈ほどもある、巨大なオチンチンを藁でこさえて、ぶっとい綱を編んでぶら下げるもんだから、飛鳥川を遡ってくる疫病神も恐れをなして、この村の入り口には、近づかんのじゃそうな。男綱というからには、女綱もあるわな。これも女の徴をかたどった藁細工が、飛鳥川の上流側の別の入り口にぶっとい綱でぶら下げてある。男も女も力を合わせてふんばって、疫病に付け入る隙を与えんようにしている訳や。

 

ふーん。もしせんかったらどないなるんやろ。

それがな。百年ほど前のことやけど、いっぺんだけ、こんなしんどいこと止めよいうて、男綱も女綱も張らんかったことがある。そうしたらな、村に死人が出るわ出るわ、その年一年の間に、村人が五十人も死んだそうや。それからは、くわばらくわばらいうて、毎年正月には新しい綱に掛け替える綱掛け神事がもう欠かされたことがないんや。

 

親から子へ、孫へ、このように語り伝えられているであろう勧請綱掛け神事を今年初めて見学することができた。昨年一年棚田へ通う度に、その下をくぐった勧請綱は、このようなわけで、ずっと更新されてきた村の伝統文化なのである。

 

なぜ、男根であり、女陰なのか。たぶん子孫繁栄祈願という意味合いがあるのだろう。それにしても、大らかな雰囲気がよい。聖徳太子ゆかりの地ではあるが、こういうものは仏教文化以前の山や大地の神々への信仰に源を発するのではないだろうか。男根も女陰も不思議な力をもつものとして崇められた。そういう大らかさが今も息づいているというのが、実にいいと思うのである。

 

棚田の仲間のM夫人は、この日男綱女綱を編み込んだオリジナルセーターを着てのお出ましだ。連れ合いのM氏は棚田通いの準村民を代表して神事の玉串を捧げた。いつの間にやら神事の法被を着せてもらい、帯代わりに自分で編んだらしい縄を巻き付け、何十年も前からの農民みたいな顔をしているのも、いとおかしという風情。本来よそ者である我々が、このように受け入れられていることと、男根や女陰を奉るこの神事の大らかさは切っても切れない関係にあるように思われるのである。

 

明日香には、亀石やら酒船石といった聖徳太子以前の得体の知れない遺跡も多い。弥生時代の日本ってどんなだったのだろう。そのころも明日香は、きっととても大らかな村だったのではないだろうか。ゆえに、いろんなものを受け入れてきた。そして、我々が知る限りでは、日本で最初の都がここにできた。そういう伝統が今も息づき、新しいルネッサンスが根付こうとしている。都会からの通い村民が米作りを教わりに棚田へ来ている。それにたいして村の人たちは、千数百年前の渡来民に対するのと何も変わらない処遇で接してくれているのではないか。米から醸した心づくしの甘酒をよばれながら、なんだかそんな気がしてくる綱掛け神事であった。(1998.1 by 陽)